2011年01月31日
悪代官①・・・お主も悪よの~・・・
水戸黄門等で、「お主も悪よの~」・・・でお馴染みの、悪代官は、実在しました。
少し長くなるので、何回かに分けようと思います・・・まずは、昔の税率の話から・・・
昔、歴史の授業で習った年貢・・・「四公六民」・・・
領主の取り分が四割、農民の取り分が六割という江戸時代の平均的目安とされた年貢の徴収率だ。
ちなみに戦国時代、六公四民、七公三民、があたり前で、五公五民で夢、四公六民は、夢のまた夢・・・
そんな中、唯一四公六民を目指した武将がいた。伊勢宗瑞こと、後の北条早雲である。
その早雲は、四十代~五十代のころ、今川氏の客将として沼津興国寺城周辺を治めていた。
その頃の税率は、すでに四公六民であったが、領民からは、神のようにあがめられ、
隣国の伊豆の民などは、それを羨み、逃げ込むものもあったという、
当時、伊豆の国は、関東管領上杉氏と韮山の堀越公方によって二重の税を納めており、
民の生活は、窮乏を極めていた。そんな背景もある。
早雲は、後に伊豆を攻める・・・伊豆の治世を守るという大義名分の下・・・
しかし目的は、伊豆の民を救うというよりは、自領の税率を守る為である・・・
ときは、戦国の世であり国を守るためにも軍事力は必要であった。
当時の早雲は、東駿の一領主にすぎず、しかも領地は、今川氏からの借り物、安い税率・・・
国を守るための軍事力など、持てるはずもなく、その軍事力を伊豆にもとめた・・・
一向宗が治め、「農民の国」と言われた。加賀の国でさえ五公五民であった事を考えると
早雲が、貫いた四公六民が、いかに戦国期に無謀であったかが解る・・・
その税率は、早雲が小田原を攻め、関東周辺を北条家が治めてからも続き、
早雲の教えは、五代にわたって守られていく・・・
時は、下って家康の関東入封のとき、人心掌握のため、四公六民を継続していくこととなる・・・
つづく・・・
少し長くなるので、何回かに分けようと思います・・・まずは、昔の税率の話から・・・
昔、歴史の授業で習った年貢・・・「四公六民」・・・
領主の取り分が四割、農民の取り分が六割という江戸時代の平均的目安とされた年貢の徴収率だ。
ちなみに戦国時代、六公四民、七公三民、があたり前で、五公五民で夢、四公六民は、夢のまた夢・・・
そんな中、唯一四公六民を目指した武将がいた。伊勢宗瑞こと、後の北条早雲である。
その早雲は、四十代~五十代のころ、今川氏の客将として沼津興国寺城周辺を治めていた。
その頃の税率は、すでに四公六民であったが、領民からは、神のようにあがめられ、
隣国の伊豆の民などは、それを羨み、逃げ込むものもあったという、
当時、伊豆の国は、関東管領上杉氏と韮山の堀越公方によって二重の税を納めており、
民の生活は、窮乏を極めていた。そんな背景もある。
早雲は、後に伊豆を攻める・・・伊豆の治世を守るという大義名分の下・・・
しかし目的は、伊豆の民を救うというよりは、自領の税率を守る為である・・・
ときは、戦国の世であり国を守るためにも軍事力は必要であった。
当時の早雲は、東駿の一領主にすぎず、しかも領地は、今川氏からの借り物、安い税率・・・
国を守るための軍事力など、持てるはずもなく、その軍事力を伊豆にもとめた・・・
一向宗が治め、「農民の国」と言われた。加賀の国でさえ五公五民であった事を考えると
早雲が、貫いた四公六民が、いかに戦国期に無謀であったかが解る・・・
その税率は、早雲が小田原を攻め、関東周辺を北条家が治めてからも続き、
早雲の教えは、五代にわたって守られていく・・・
時は、下って家康の関東入封のとき、人心掌握のため、四公六民を継続していくこととなる・・・
つづく・・・