2011年02月01日
悪代官②・・・
家康は、関東入封に際して四公六民を公言するが、実は、まもられていない・・・
それもそのはず、四公六民を公言しても、実は、そんな気はさらさらなかった・・・
もともと、家康の考えには、「百姓は生かさず、殺さず・・・」というものがあり、
その辺、他の戦国武将となんら変わりない、全ては、世論の為である・・・
北条氏が、実施していた。四公六民という年貢率は、農民にとって夢のような数字で、
人心掌握には十分の効果があった・・・言葉だけでもだ・・・うわさはひろがる・・・さらに大きくなって
関東の民だけでなく、日本全ての民が、新しい世(徳川の天下)に期待するようになった・・・
(この辺は、今も昔も変わらない・・・いや、選挙でトップを選べることを考えると
今の方が、ひどい・・・お粗末と言わざるをえない・・・最終的には国民1人1人の責任である)
・・・この時代の民に責任は無い、全ては家康の謀略だ・・・天下をとる為の・・・
天下をとる為の謀略だったから、その後がない・・・四公六民も、当然あやふやになっていく・・・
天下をとり、金山、銀山ををおさえることで、幕府の財政は安定する・・・
結果、本来の財源である年貢を、ないがしろにする。民のことなどほっぽらかしだ・・・
幕府は、天領(直轄地)の租税徴収を、年貢取立て請負人とでもいうべき地着き豪族型の役人に
まかせていく・・・「代官」である・・・
つづく・・・
それもそのはず、四公六民を公言しても、実は、そんな気はさらさらなかった・・・
もともと、家康の考えには、「百姓は生かさず、殺さず・・・」というものがあり、
その辺、他の戦国武将となんら変わりない、全ては、世論の為である・・・
北条氏が、実施していた。四公六民という年貢率は、農民にとって夢のような数字で、
人心掌握には十分の効果があった・・・言葉だけでもだ・・・うわさはひろがる・・・さらに大きくなって
関東の民だけでなく、日本全ての民が、新しい世(徳川の天下)に期待するようになった・・・
(この辺は、今も昔も変わらない・・・いや、選挙でトップを選べることを考えると
今の方が、ひどい・・・お粗末と言わざるをえない・・・最終的には国民1人1人の責任である)
・・・この時代の民に責任は無い、全ては家康の謀略だ・・・天下をとる為の・・・
天下をとる為の謀略だったから、その後がない・・・四公六民も、当然あやふやになっていく・・・
天下をとり、金山、銀山ををおさえることで、幕府の財政は安定する・・・
結果、本来の財源である年貢を、ないがしろにする。民のことなどほっぽらかしだ・・・
幕府は、天領(直轄地)の租税徴収を、年貢取立て請負人とでもいうべき地着き豪族型の役人に
まかせていく・・・「代官」である・・・
つづく・・・
2011年01月31日
悪代官①・・・お主も悪よの~・・・
水戸黄門等で、「お主も悪よの~」・・・でお馴染みの、悪代官は、実在しました。
少し長くなるので、何回かに分けようと思います・・・まずは、昔の税率の話から・・・
昔、歴史の授業で習った年貢・・・「四公六民」・・・
領主の取り分が四割、農民の取り分が六割という江戸時代の平均的目安とされた年貢の徴収率だ。
ちなみに戦国時代、六公四民、七公三民、があたり前で、五公五民で夢、四公六民は、夢のまた夢・・・
そんな中、唯一四公六民を目指した武将がいた。伊勢宗瑞こと、後の北条早雲である。
その早雲は、四十代~五十代のころ、今川氏の客将として沼津興国寺城周辺を治めていた。
その頃の税率は、すでに四公六民であったが、領民からは、神のようにあがめられ、
隣国の伊豆の民などは、それを羨み、逃げ込むものもあったという、
当時、伊豆の国は、関東管領上杉氏と韮山の堀越公方によって二重の税を納めており、
民の生活は、窮乏を極めていた。そんな背景もある。
早雲は、後に伊豆を攻める・・・伊豆の治世を守るという大義名分の下・・・
しかし目的は、伊豆の民を救うというよりは、自領の税率を守る為である・・・
ときは、戦国の世であり国を守るためにも軍事力は必要であった。
当時の早雲は、東駿の一領主にすぎず、しかも領地は、今川氏からの借り物、安い税率・・・
国を守るための軍事力など、持てるはずもなく、その軍事力を伊豆にもとめた・・・
一向宗が治め、「農民の国」と言われた。加賀の国でさえ五公五民であった事を考えると
早雲が、貫いた四公六民が、いかに戦国期に無謀であったかが解る・・・
その税率は、早雲が小田原を攻め、関東周辺を北条家が治めてからも続き、
早雲の教えは、五代にわたって守られていく・・・
時は、下って家康の関東入封のとき、人心掌握のため、四公六民を継続していくこととなる・・・
つづく・・・
少し長くなるので、何回かに分けようと思います・・・まずは、昔の税率の話から・・・
昔、歴史の授業で習った年貢・・・「四公六民」・・・
領主の取り分が四割、農民の取り分が六割という江戸時代の平均的目安とされた年貢の徴収率だ。
ちなみに戦国時代、六公四民、七公三民、があたり前で、五公五民で夢、四公六民は、夢のまた夢・・・
そんな中、唯一四公六民を目指した武将がいた。伊勢宗瑞こと、後の北条早雲である。
その早雲は、四十代~五十代のころ、今川氏の客将として沼津興国寺城周辺を治めていた。
その頃の税率は、すでに四公六民であったが、領民からは、神のようにあがめられ、
隣国の伊豆の民などは、それを羨み、逃げ込むものもあったという、
当時、伊豆の国は、関東管領上杉氏と韮山の堀越公方によって二重の税を納めており、
民の生活は、窮乏を極めていた。そんな背景もある。
早雲は、後に伊豆を攻める・・・伊豆の治世を守るという大義名分の下・・・
しかし目的は、伊豆の民を救うというよりは、自領の税率を守る為である・・・
ときは、戦国の世であり国を守るためにも軍事力は必要であった。
当時の早雲は、東駿の一領主にすぎず、しかも領地は、今川氏からの借り物、安い税率・・・
国を守るための軍事力など、持てるはずもなく、その軍事力を伊豆にもとめた・・・
一向宗が治め、「農民の国」と言われた。加賀の国でさえ五公五民であった事を考えると
早雲が、貫いた四公六民が、いかに戦国期に無謀であったかが解る・・・
その税率は、早雲が小田原を攻め、関東周辺を北条家が治めてからも続き、
早雲の教えは、五代にわたって守られていく・・・
時は、下って家康の関東入封のとき、人心掌握のため、四公六民を継続していくこととなる・・・
つづく・・・
2011年01月22日
江戸幕府の台所事情③・・・
家光の浪費による経済効果その三
家光が幕府の組織機構を整えた寛永十年代ごろをピークに、金銀の産出は
目にみえて衰えていった。家光がせっせと浪費していたころ、金山は出がらし状態だったのである・・・
それでもまだ当時は幕庫にゆとりがあった。
家光は、嫡子の家綱に遺産を六百万両以上のこした。そのほか三男の綱重、四男の綱吉に
五十万両を分け与えている。
この家光の浪費だが、これを日本国の経済という観点から見るなら、大いにプラスにはたらいた。
幕府は家康の時代から家光の時代にかけて金貨(慶長小判)、銀貨(慶長丁銀)、
銅貨(寛永通宝)の三貨を発行し、幣制を統一した。そして日本は本格的な
貨幣経済社会に突入していくのだが、家光が浪費家ではなく、締りやで、
御金蔵の金を眺めているのが趣味だというような男だったらどうだろうか・・・
世間一般に貨幣はいきわたらない。幣制の統一、貨幣経済社会への移行とは名ばかりで、
原始的な物々交換経済といった状態から容易にぬけだせなかったにちがいない。
そうではなく浪費家だったから、多額の貨幣が世間一般にいきわたり、また大いに流通し、
商品の動きも活発になった。
家光の在位は元和九年(1623)から慶安四年(1651)までの足かけおよそ三十年の間である。
商品経済活動が活発になったのは十七世紀後半といわれている。
十七世紀後半に商品経済活動が活発になったのは、一歩手前の段階で、家光の浪費という
種が撒かれていたからである。家光の浪費こそが十七世紀後半の、貨幣経済活動と
商品経済活動が一体となった経済の興隆をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
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家光が幕府の組織機構を整えた寛永十年代ごろをピークに、金銀の産出は
目にみえて衰えていった。家光がせっせと浪費していたころ、金山は出がらし状態だったのである・・・
それでもまだ当時は幕庫にゆとりがあった。
家光は、嫡子の家綱に遺産を六百万両以上のこした。そのほか三男の綱重、四男の綱吉に
五十万両を分け与えている。
この家光の浪費だが、これを日本国の経済という観点から見るなら、大いにプラスにはたらいた。
幕府は家康の時代から家光の時代にかけて金貨(慶長小判)、銀貨(慶長丁銀)、
銅貨(寛永通宝)の三貨を発行し、幣制を統一した。そして日本は本格的な
貨幣経済社会に突入していくのだが、家光が浪費家ではなく、締りやで、
御金蔵の金を眺めているのが趣味だというような男だったらどうだろうか・・・
世間一般に貨幣はいきわたらない。幣制の統一、貨幣経済社会への移行とは名ばかりで、
原始的な物々交換経済といった状態から容易にぬけだせなかったにちがいない。
そうではなく浪費家だったから、多額の貨幣が世間一般にいきわたり、また大いに流通し、
商品の動きも活発になった。
家光の在位は元和九年(1623)から慶安四年(1651)までの足かけおよそ三十年の間である。
商品経済活動が活発になったのは十七世紀後半といわれている。
十七世紀後半に商品経済活動が活発になったのは、一歩手前の段階で、家光の浪費という
種が撒かれていたからである。家光の浪費こそが十七世紀後半の、貨幣経済活動と
商品経済活動が一体となった経済の興隆をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
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2011年01月21日
江戸幕府の台所事情②・・・
家光の浪費による経済効果その二
家光は、弟の忠長に将軍の座を奪われそうになるが、春日局と祖父家康にすくわれる。
そんなこともあり、東照神君家康への畏敬の念がとても強く、父秀忠の死後、本格的に
日光東照宮を造営した。これに五十七万両という大金をかけた。
日光東照宮を造営するだけでなく、参拝にも精をだした。
父秀忠との同行の二回も含めて、合計十回も日光に出かけた。
一回の費用はおよそ十万両と推測される。十回だと単純に掛け算して百万両だ。
造営日とあわせると日光東照宮関係だけで百六十万両ちかくつかっている。
家光は秀忠と二度、単独で一度、合計三度上洛した。
単独での三回目の上洛は三十万七千人という大軍を従えての上洛だ。
上洛の直接経費にいくらかかったか、記録はない。
大名の上洛費用は彼らが負担したろうが、旗本など直参はそうもいかなかったろう。
かなりの援助をし、これに相当金がかかったものと思われる。
京では天皇をはじめ諸公卿に献金した。京の町民にも祝儀をばらまいた。戻ると江戸の町民にも
祝儀をばらまいた。ばらまいた金の記録はのこっていて、合計二十三万両つかっている。
上洛の直接経費も加えると、五十万両ではきかなかったろう・・・
江戸は馬糞臭い新興の町だった。諸大名にも手伝わせたが、幕府みずからも金をかけて、
作事・普請(土木および建築工事)を行った。これらにもかなりの金をつかった。
安宅丸という、軍船と称していたが、馬鹿でかい遊覧船のような船も、およそ十万両をだして
建造した。そのほか、やむをえない費用だったが、島原の乱の戦費が妬く四十万両かかっている
それやこれやで家光は、経常費以外に六百万両以上(約一兆円)
つかったのではないかと推測されている・・・・・が、ゴールドラッシュは続かなかった・・・
・・・またまたつづく・・・
家光は、弟の忠長に将軍の座を奪われそうになるが、春日局と祖父家康にすくわれる。
そんなこともあり、東照神君家康への畏敬の念がとても強く、父秀忠の死後、本格的に
日光東照宮を造営した。これに五十七万両という大金をかけた。
日光東照宮を造営するだけでなく、参拝にも精をだした。
父秀忠との同行の二回も含めて、合計十回も日光に出かけた。
一回の費用はおよそ十万両と推測される。十回だと単純に掛け算して百万両だ。
造営日とあわせると日光東照宮関係だけで百六十万両ちかくつかっている。
家光は秀忠と二度、単独で一度、合計三度上洛した。
単独での三回目の上洛は三十万七千人という大軍を従えての上洛だ。
上洛の直接経費にいくらかかったか、記録はない。
大名の上洛費用は彼らが負担したろうが、旗本など直参はそうもいかなかったろう。
かなりの援助をし、これに相当金がかかったものと思われる。
京では天皇をはじめ諸公卿に献金した。京の町民にも祝儀をばらまいた。戻ると江戸の町民にも
祝儀をばらまいた。ばらまいた金の記録はのこっていて、合計二十三万両つかっている。
上洛の直接経費も加えると、五十万両ではきかなかったろう・・・
江戸は馬糞臭い新興の町だった。諸大名にも手伝わせたが、幕府みずからも金をかけて、
作事・普請(土木および建築工事)を行った。これらにもかなりの金をつかった。
安宅丸という、軍船と称していたが、馬鹿でかい遊覧船のような船も、およそ十万両をだして
建造した。そのほか、やむをえない費用だったが、島原の乱の戦費が妬く四十万両かかっている
それやこれやで家光は、経常費以外に六百万両以上(約一兆円)
つかったのではないかと推測されている・・・・・が、ゴールドラッシュは続かなかった・・・
・・・またまたつづく・・・
2011年01月21日
江戸幕府の台所事情①・・・
家光の浪費による経済効果その一
徳川家康は天下を統一するとともに、全国のめぼしい金銀鉱山を一手に押さえた。
時あたかも日本はゴールドラッシュを迎えた。
大量に掘り出された金銀はことごとく幕庫に収まり、金銀がうなっていた。
お金の持ち主という事で区別するなら、開幕当初、徳川家と幕府は未分化で、
金は幕府というより徳川家に帰属した。
比較する材料をもちあわせていないから断定はできないが、
そのころ徳川家は、世界一の大金持ちだったのではないか・・・
三代将軍家光が、相続した遺産は、おおよそ千五百万両といわれている・・・
現在の価値に直すと二兆円を軽く超える・・・ただし、それはあくまでも一両を15万円とした場合だ。
当時の幕府の年間支出百五十万両の10倍・・・
現在の国家予算を10年間無税でまかなえる金額と考えると恐ろしい金額になる。
しかも家光に代替わりした当初は、金も銀もまだまだ産出されていた。
ひょっとすると、ゴールドラッシュはずっと続くという錯覚を家光はもっていたのかもしれない。
「入るを量りて出だすことを為す」。収入の枠内で支出を考えるべきだという財政の基本に、
とんと無頓着だった。それどころか、家光は幕庫にある金銀をおしげもなくつかう
桁外れの浪費家といっていいほど・・・つかいまくった。
・・・つづきは、次回
徳川家康は天下を統一するとともに、全国のめぼしい金銀鉱山を一手に押さえた。
時あたかも日本はゴールドラッシュを迎えた。
大量に掘り出された金銀はことごとく幕庫に収まり、金銀がうなっていた。
お金の持ち主という事で区別するなら、開幕当初、徳川家と幕府は未分化で、
金は幕府というより徳川家に帰属した。
比較する材料をもちあわせていないから断定はできないが、
そのころ徳川家は、世界一の大金持ちだったのではないか・・・
三代将軍家光が、相続した遺産は、おおよそ千五百万両といわれている・・・
現在の価値に直すと二兆円を軽く超える・・・ただし、それはあくまでも一両を15万円とした場合だ。
当時の幕府の年間支出百五十万両の10倍・・・
現在の国家予算を10年間無税でまかなえる金額と考えると恐ろしい金額になる。
しかも家光に代替わりした当初は、金も銀もまだまだ産出されていた。
ひょっとすると、ゴールドラッシュはずっと続くという錯覚を家光はもっていたのかもしれない。
「入るを量りて出だすことを為す」。収入の枠内で支出を考えるべきだという財政の基本に、
とんと無頓着だった。それどころか、家光は幕庫にある金銀をおしげもなくつかう
桁外れの浪費家といっていいほど・・・つかいまくった。
・・・つづきは、次回
2010年11月13日
江戸のお金・・・一両っていくら?


おはようございます。
よく、江戸時代の一文銭や一両小判は今のどれくらいの価値があったのかと聞かれます・・・
・・・ウソです・・・聞かれません・・・
ホントは、私が、気になるだけです。
調べても、調べても、今でも、はっきりしません
とても気になります・・・とっても、とっても・・・
ですので「大食い」の前に、江戸のお金のお話を・・・
前回のブログで、一両二分を20万円以上と書きましたが、実際はわかりません。
いろいろな文献を見ても、それぞれで、一両の価値が違います。
ある歴史学者さんは、一両を20万円と言い、ある時代小説家さんは、一両を10万円と言う
6万円と言う方もいれば、30万円と言う方もいます・・・50万だと言う方まで・・・
実際、一口に一文が何円、一両が何円とは答えられません。 それには次のような理由があります。
(1)江戸時代は、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が共存していて、それらが別々の相場でした。
まるで一つの国の中に、ドルと円とルピアがあるようなものです。
(2)江戸時代は270年近くあります。元禄の改鋳を初め、貨幣の品質が260年間でだんだん
低下していきました。品質が下がると、当然物価は上昇します。
(3)現在より、保存と輸送に費用がかかる時代でした。飢饉になれば物価は高騰します。
場所や季節による価格差も今以上に顕著でした。
(4)現在と、物やサービスの価値が大きく異なります。一般に米や調味料などの専売品は
今より高く、それ以外の食品(野菜や魚など)・生活雑貨・賃金・土地は
今より安かったようです。
そこで、私は私なりに色々調べて、勝手に一両の価値を現在の15万円としました。
(あくまでも、私が、楽しむために決めた価値なので、誤解しないでください・・・)
理由は以下のとおりです。
化政年間(1804~29)の物価を調べる、・・・(化政年間とは、文化・文政の総称)
米や調味料を基準にすると、1文=5円~25円、1両=3万円~15万円
労賃やその他生活必需品を基準にすると、1文=25円~50円、1両=15万円~30万円
間をとって一両15万円(結構単純でしたね・・・おゆるしを・・・)
3種類の貨幣も
金1両(15万円)=銀60匁(1匁2500円)=銭6000文(1文25円)
*わかりやすくする為です、実際は、化政年間・1804~29で一両=60匁~65匁=6000文~7000文
(ちなみに化政年間は、江戸時代をとおして物価や相場が、一番安定していたとされてます)
調べてみた化政期の物価と人件費の例
米 8合(1.2kg)=100文
みそ 1貫(3.75kg)=160文
お茶 中級1斤(750g)=550~580文
飲み水 きれいな水1荷(約20リットル?)=150文
塩 1升(1.5kg)=16文
握りずし 1貫=8文
すいか 38文
そば(もり、かけ) 16文
居酒屋の湯豆腐 8文
なす 10個=5~10文
大工さんの日当 銀5.5 ~ 6匁
棒手振商人の一日の儲け400~500文
あんま 48文
駕籠代 1里(4km)=300~400文
医者初診料 銀10~15匁
歌舞伎入場料 桟敷席=銀35匁
町奉行所同心の年収 30俵2人扶持(金14両)+付届け(年間50両~200両?くらい)
町奉行所与力の年収 200表(金約70両)+付届け
(ちなみに町与力の付け届けは、実力にもよるがだいたい年間で500両くらいはあったそうで
古参の実力者の中には3000両あった者もいたと言われている、さすが江戸の三男の一人です)
*3000両は、一万石の大名家の江戸での生活費の約5倍・・・
*付届けとは 謝礼・依頼・義理などのため贈り物をすることで、賄賂とは違います
最後に越後屋呉服店の売り上げ
越後屋呉服店と言えば現金商売掛値無しや切り売り商売で有名ですが
現在でいうユニクロやシマムラのような存在でしょうか(御用商をせず庶民向け呉服店だった)
三井越後屋江戸本店の売上高は、1745年には1日銭272万2700文とあり
金にして、450両以上、年間350日の営業としても、15万7500両・・・
私の勝手な換算方法でも、年商236億円・・・すごい・・・
いや、当時の江戸幕府の年間支出が約150万両で、その10分の1・・・
現在の日本の国家予算が約90兆円ですから9兆円と考えるほうが良いのかも・・・
って、おおげさでした・・・
またまた、長くなってしまいました・・・すみません・・・では、また・・・
参考文献
山本博文、「江戸時代を探検する」文藝春秋、1996
興津要、 「大江戸商売ばなし」PHP文庫、1997
中江克巳、「江戸時代に生きたなら」廣済堂出版、1993
三好一光、「江戸生業物価事典」青蛙社、2002
小沢詠美子、「お江戸の経済事情」東京堂出版、2002
その他、時代小説多数・・・(司馬遼太郎・池波正太郎・柴田錬三郎・佐藤雅美など)