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2011年01月31日

悪代官①・・・お主も悪よの~・・・

水戸黄門等で、「お主も悪よの~」・・・でお馴染みの、悪代官は、実在しました。

少し長くなるので、何回かに分けようと思います・・・まずは、昔の税率の話から・・・

昔、歴史の授業で習った年貢・・・「四公六民」・・・

領主の取り分が四割、農民の取り分が六割という江戸時代の平均的目安とされた年貢の徴収率だ。

ちなみに戦国時代、六公四民、七公三民、があたり前で、五公五民で夢、四公六民は、夢のまた夢・・・

そんな中、唯一四公六民を目指した武将がいた。伊勢宗瑞こと、後の北条早雲である。

その早雲は、四十代~五十代のころ、今川氏の客将として沼津興国寺城周辺を治めていた。

その頃の税率は、すでに四公六民であったが、領民からは、神のようにあがめられ、

隣国の伊豆の民などは、それを羨み、逃げ込むものもあったという、

当時、伊豆の国は、関東管領上杉氏と韮山の堀越公方によって二重の税を納めており、

民の生活は、窮乏を極めていた。そんな背景もある。

早雲は、後に伊豆を攻める・・・伊豆の治世を守るという大義名分の下・・・

しかし目的は、伊豆の民を救うというよりは、自領の税率を守る為である・・・

ときは、戦国の世であり国を守るためにも軍事力は必要であった。

当時の早雲は、東駿の一領主にすぎず、しかも領地は、今川氏からの借り物、安い税率・・・

国を守るための軍事力など、持てるはずもなく、その軍事力を伊豆にもとめた・・・

一向宗が治め、「農民の国」と言われた。加賀の国でさえ五公五民であった事を考えると

早雲が、貫いた四公六民が、いかに戦国期に無謀であったかが解る・・・

その税率は、早雲が小田原を攻め、関東周辺を北条家が治めてからも続き、

早雲の教えは、五代にわたって守られていく・・・

時は、下って家康の関東入封のとき、人心掌握のため、四公六民を継続していくこととなる・・・

つづく・・・

  


Posted by かず at 07:49Comments(2)江戸の経済

2011年01月29日

すし・・・「江戸前にぎり」



握られて出来て喰い付くすしの飯   (江戸川柳)

川柳は、「江戸前ずし」を詠んだもの、いまやすしといえば、全国津々浦々、江戸前の看板ばかりだが、

江戸前の握りずしが登場したのは、江戸もずっと下がった、

いわゆる化政期といわれたごく後期の頃である。それだから、水戸黄門や

大岡越前は、江戸前の握りずしを口にしていない、遠山の金さんは食べたかもしれない・・・

それ以前のすしは、大津の鮒ずしに代表されるように、米の乳酸発酵を利用した長期熟成の馴れずしか、

飯の上に鯖や鮎の切り身をのせて、重しをかけて発酵を早めた押しずしのことを指した。

どちらも、澱粉の糖分で魚のアミノ酸を分解し、酸敗による旨味を引き出す製法で、

相応に時間がかかる。気の短い江戸っ子は、炊き上げた飯に酢を混ぜ、そこに魚の切り身をのせ、

キュッと握った即席ずしを発明した(裏ワザに近いだろう)。すしのヌーベル・バーグである。

従来のすしと異なる製法、そして味わいであることから、区別のため、わざわざ江戸前と冠した。

江戸前とは、江戸湾岸でとれた近海ネタを使ったというばかりでなく、

腕前、男前に通じる、江戸スタイルをも意味し、江戸の流儀で作ったオリジナルレシピだ。

「すしになる間とくばる枕かな」と一茶が詠んだように、以前のすしでは、すしふるまいには、

客に一睡してもらわないとならなかった・・・

注文した目の前で作り、すぐその場で食べられる・・・江戸前ずし・・・

「握られて出来て喰い付く・・・」は、実にセンセーショナルだった。

(by杉浦日向子さん大江戸美味草紙より)  


Posted by かず at 07:57Comments(10)江戸川柳

2011年01月27日

江戸っ子度チェック・・・

たまに、自分は江戸っ子っぽいな、な〜んて思うことありませんか・・・はい、ないですね・・・

・・・まあ、暇つぶしにでもやってみてください。

杉浦日向子さんの、江戸っ子度十八のチェック

衝動買いをすることがよくある。

見栄っ張りだ。借金しても、人におごったことがある。

早口だ。よく聞き返される。

何でも勝手に略語にしてしまう。

気が短い。推理小説は、いつも初めに結末のページを見てしまう。

定食より丼飯のほうが好き。

意外と潔癖だ。濡れたお箸を気味悪がる。

下着は白、必ず毎日取り替える。

行きつけの床屋がある。

おしゃれに無頓着のように見えるが、こだわりがある。

履物には金をかけるほうだ。

間食が好き。

入浴時間は15分以内、摂氏45度以上の熱い湯に毎日入る。

アガリ性だ。緊張すると、言動が怒っているように見える。

異性交際がヘタ。いったんくっつくと、泥沼になりやすい。

駄洒落が好き。人に嫌がられるほど駄洒落を連発する。

ウソ話を本気で聞いて、後で笑われることがよくある。

涙もろいほうだ。

十八項目パーフェクトなら、オメデトウ金箔付きの江戸っ子。

十五以上は、並の東京人、ヒトケタ台は並みの日本人です。
  


Posted by かず at 09:27Comments(14)

2011年01月25日

誕生日・・・

江戸時代に、誕生日を祝う習慣はない。

というより、数え歳だから、元旦に、みんないっせいに歳をとる・・・

しかも生まれた時すでに一歳・・・(母親のお腹にいるときも数える)

大晦日に生まれると、翌日(元旦)には二歳になっていた・・・

今日は、娘の誕生日、今の時代に生まれてよかったね・・・

・・・と、わけのわからないことを言ってしまう私であります。(^^;

  


Posted by かず at 20:15Comments(7)

2011年01月24日

まぐろ・・・



いまは、寿司でもお造りでも、マグロがやたら珍重されるが、

江戸では、サツマイモ、カボチャとならぶ下下の食い物だった・・・

天保の大飢饉のとき、江戸近海でマグロが大漁となり、以来すしネタに定着した。

しかもトロは田畑のこやしに・・・

赤身のいいところだけを、ヅケといって、醤油とみりんにつけこんで、

べっこう色になったのを酢飯にあわせていた。

アトは、葱鮪(ネギマ)といって、ねぎと交互に串にさし焼いたり鍋に入れたりして

一杯呑み屋の定番料理となった。どちらかというと昨日の山くじらより不人気で、

刺身の王様となるのは、まだまだ先のはなしである。


  


Posted by かず at 07:26Comments(14)

2011年01月23日

山くじら・・・



おそろしきものの喰いたき雪の空    (江戸川柳)

・・・・・そんな雪もよいの、江戸の空の下。ひまをもてあました野郎一匹、

寒く寂しい夜、食いたくなるものといえば、「ぼたん」こと、猪鍋にちがいあるめえ

とはご明察???おしい・・・だが、ちとちがう・・・

(by杉浦日向子さん大江戸美味草紙より)

ちなみに、ここでの正解は・・・「鉄砲」こと・・・ふぐ



江戸時代、冬の寒空には、酒の肴として、猪鍋がよく食べられました。

猪のことを「山くじら」と言いますね、

江戸では、山くじらをおもに相模の丹沢から仕入れていましたが、

人気があり、伊豆からも仕入れておりました。伊豆の沿岸からは魚も運ばれましたが、

薪や柴も誇大な量が運ばれており、それらの船に便乗させるので、運び賃がさほどかからず、

むしろ割安だったのだそうです。  


Posted by かず at 06:45Comments(10)江戸っ子の生活

2011年01月22日

江戸幕府の台所事情③・・・

家光の浪費による経済効果その三 
 
 家光が幕府の組織機構を整えた寛永十年代ごろをピークに、金銀の産出は

目にみえて衰えていった。家光がせっせと浪費していたころ、金山は出がらし状態だったのである・・・

それでもまだ当時は幕庫にゆとりがあった。

家光は、嫡子の家綱に遺産を六百万両以上のこした。そのほか三男の綱重、四男の綱吉に

五十万両を分け与えている。

この家光の浪費だが、これを日本国の経済という観点から見るなら、大いにプラスにはたらいた。

幕府は家康の時代から家光の時代にかけて金貨(慶長小判)、銀貨(慶長丁銀)、

銅貨(寛永通宝)の三貨を発行し、幣制を統一した。そして日本は本格的な

貨幣経済社会に突入していくのだが、家光が浪費家ではなく、締りやで、

御金蔵の金を眺めているのが趣味だというような男だったらどうだろうか・・・

世間一般に貨幣はいきわたらない。幣制の統一、貨幣経済社会への移行とは名ばかりで、

原始的な物々交換経済といった状態から容易にぬけだせなかったにちがいない。

そうではなく浪費家だったから、多額の貨幣が世間一般にいきわたり、また大いに流通し、

商品の動きも活発になった。

家光の在位は元和九年(1623)から慶安四年(1651)までの足かけおよそ三十年の間である。

商品経済活動が活発になったのは十七世紀後半といわれている。

十七世紀後半に商品経済活動が活発になったのは、一歩手前の段階で、家光の浪費という

種が撒かれていたからである。家光の浪費こそが十七世紀後半の、貨幣経済活動と

商品経済活動が一体となった経済の興隆をもたらしたと言っても過言ではないだろう。




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Posted by かず at 09:17Comments(4)江戸の経済

2011年01月21日

江戸幕府の台所事情②・・・

家光の浪費による経済効果その二 

 家光は、弟の忠長に将軍の座を奪われそうになるが、春日局と祖父家康にすくわれる。

そんなこともあり、東照神君家康への畏敬の念がとても強く、父秀忠の死後、本格的に

日光東照宮を造営した。これに五十七万両という大金をかけた。

日光東照宮を造営するだけでなく、参拝にも精をだした。

父秀忠との同行の二回も含めて、合計十回も日光に出かけた。

 一回の費用はおよそ十万両と推測される。十回だと単純に掛け算して百万両だ。

造営日とあわせると日光東照宮関係だけで百六十万両ちかくつかっている。

 家光は秀忠と二度、単独で一度、合計三度上洛した。

単独での三回目の上洛は三十万七千人という大軍を従えての上洛だ。

上洛の直接経費にいくらかかったか、記録はない。

大名の上洛費用は彼らが負担したろうが、旗本など直参はそうもいかなかったろう。

かなりの援助をし、これに相当金がかかったものと思われる。

京では天皇をはじめ諸公卿に献金した。京の町民にも祝儀をばらまいた。戻ると江戸の町民にも

祝儀をばらまいた。ばらまいた金の記録はのこっていて、合計二十三万両つかっている。

上洛の直接経費も加えると、五十万両ではきかなかったろう・・・

 江戸は馬糞臭い新興の町だった。諸大名にも手伝わせたが、幕府みずからも金をかけて、

作事・普請(土木および建築工事)を行った。これらにもかなりの金をつかった。

 安宅丸という、軍船と称していたが、馬鹿でかい遊覧船のような船も、およそ十万両をだして

建造した。そのほか、やむをえない費用だったが、島原の乱の戦費が妬く四十万両かかっている

それやこれやで家光は、経常費以外に六百万両以上(約一兆円)

つかったのではないかと推測されている・・・・・が、ゴールドラッシュは続かなかった・・・

・・・またまたつづく・・・  


Posted by かず at 20:44Comments(2)江戸の経済

2011年01月21日

江戸幕府の台所事情①・・・

家光の浪費による経済効果その一 

 徳川家康は天下を統一するとともに、全国のめぼしい金銀鉱山を一手に押さえた。

時あたかも日本はゴールドラッシュを迎えた。

大量に掘り出された金銀はことごとく幕庫に収まり、金銀がうなっていた。

お金の持ち主という事で区別するなら、開幕当初、徳川家と幕府は未分化で、

金は幕府というより徳川家に帰属した。

比較する材料をもちあわせていないから断定はできないが、

そのころ徳川家は、世界一の大金持ちだったのではないか・・・

三代将軍家光が、相続した遺産は、おおよそ千五百万両といわれている・・・

現在の価値に直すと二兆円を軽く超える・・・ただし、それはあくまでも一両を15万円とした場合だ。

当時の幕府の年間支出百五十万両の10倍・・・

現在の国家予算を10年間無税でまかなえる金額と考えると恐ろしい金額になる。

しかも家光に代替わりした当初は、金も銀もまだまだ産出されていた。

ひょっとすると、ゴールドラッシュはずっと続くという錯覚を家光はもっていたのかもしれない。

「入るを量りて出だすことを為す」。収入の枠内で支出を考えるべきだという財政の基本に、

とんと無頓着だった。それどころか、家光は幕庫にある金銀をおしげもなくつかう

桁外れの浪費家といっていいほど・・・つかいまくった。

・・・つづきは、次回

  


Posted by かず at 07:03Comments(13)江戸の経済

2011年01月19日

江戸前・江戸っ子・イキ・粋・意気・活き・・・

江戸自慢の第一が「江戸前」である。江戸前とくれば、イキでイナセで、

チャキチャキ、スッキリ。なにより都会的な様子のよさが身上だ。

 もとより、京の「都好み」に対し、江戸でうまれた造語だ。

しっとり、はんなり、たっぷり、ゆったり・・・の、千年の王城の地から見れば、

江戸などはたかだか、昨日今日ぽっと出の新興都市にすぎない。

営々と積み重ねられた伝統文化の都に、新参ものが付け焼き刃でたちむかったところで、

しょせん敵ではない。そこで、怖いものしらずの勢いと、鮮度を売りにしたイキを、

前面に打ち出したのである。よくいえば発想の転換、ありていにいえば裏ワザ、反則スレスレ、

開き直りともとれる。イキは、粋と書くけれど、そのなかには、

勢い、意気地、そして、活きがこめられている。

「京の雅」に「江戸の粋」。かくて、元禄あたりまで、ずっと上方文化のコピーにあまんじていた江戸が、

イキというキーワードを得て、ひとりだちをした。ここに、東西の駆け引きがうまれ、

たがいに刺激しあうよきライバルとなる。

・・・・・・が、一方的にライバル視したのは江戸(東京)で、上方は、

いつだって悠然と自身にあふれていた。江戸文化とは、

四百年間の上方文化へのコンプレックスの結晶である。

 江戸が都市として整備され、経済的にも安定してきた八代将軍吉宗のころから、

「江戸っ子」なるものがあらわれる。

江戸っ子は、「IハートNY(アイ・ラブ・ニューヨーク)」

のノリであり、みずからの街を「花のお江戸」、すなわち

「IハートEDO」と言っているのだ。

江戸に住む江戸人が、はじめから江戸っ子だったわけではない。

積極的な都市民の自覚に目覚めて、ひとかどの江戸っ子となる。

(by杉浦日向子さん・・・)



江戸前の食材
タイ・カツオ・アジ・ウナギ・スズキ・ハマグリ・アサリ・シャコ・クルマエビ・シラウオ
サバ・ボラ・キス・サンマ・カレイ・ハゼ・アナゴ・ドジョウ・ノリなどなど・・・
  


Posted by かず at 18:53Comments(2)江戸の文化

2011年01月18日

そばの花・・・



そばの花江戸のやつらがなに知って   (小林一茶)

 蕎麦処、信州の俳人・一茶は、江戸前にはなじまなかった。

「ふん、蕎麦の花も見たことのない江戸の連中が通だなんだと、ばかばかしい・・・」

 蕎麦好きの江戸っ子のはしくれとして、耳が痛い。

(杉浦日向子さん、大江戸美味草紙より)


江戸前を良く知らないわたし・・・耳が痛いです(^^;
(ということで、次回は、江戸前について・・・)


  


Posted by かず at 07:55Comments(12)江戸川柳

2011年01月16日

薮入り・・・

昨日の小正月(1月15日)が終わると、薮入りです。

薮入りとは、商家の奉公人(丁稚)達の年に二度の定休日で、
(江戸時代、奉公人は定休日が無く月に一度くらい交代で休んでました。店の休みは、1日と15日)

1月16日と7月16日、田舎ヘ帰る(藪がある場所に入る)という事でこう呼ばれました。

奉公人達は主人からお仕着せの着物や小遣いをもらい、親元に帰ったり、

田舎が、遠くて帰れぬものは、芝居見物をして過ごしたり、

遊楽街へ繰り出すなど年二回だけの定休日を楽しみました。

関西では「六入り」というそうです。



まめ知識・小正月
ちなみに1月1日から7日を「大正月」「男の正月」と呼ぶのに対し、

1月15日は「小正月」「女の正月」と呼びます。

この小正月の朝には、小豆がゆを食べる習慣がありました。

古くは「土佐日記」や「枕草子」などにも、小豆がゆを食べたことが記されています。

小豆がゆを食べて、その年の豊作(五穀豊穣)を祈願したということです。

小豆は、米や大豆とともに、食生活に欠かすことのできない穀物です。

小豆のような赤い色の食べ物は、体の邪気を取り払うと考えられ、

めでたい日などに、赤飯として供されてきました。

また、左義長(どんど焼き)を始め、地方によっては、

なまはげやかまくらなどの行事が行われます。


  


Posted by かず at 09:33Comments(7)江戸の文化

2011年01月15日

お客様での新年会・・・



昨日は、美味しい料理を満喫しました。

車だったのでお酒は、無しでしたが・・・

今日の朝体重は、77.8kg・・・ホントやばいです・・・・・(^^;  


Posted by かず at 10:31Comments(8)体重報告・・・

2011年01月14日

猿回し・・・

おはようございます。

初詣に行くと神社の境内でよく猿回しをみかけますよね・・・



舞猿や餅いただきて子にくれる   (小林一茶)

猿を背負ったり、曳いたりして緒方の家を訪れ、または街角で太鼓を打って猿の芸や舞をみせる

猿回しは、正月の風物詩だった。

これは、訪れた家の繁栄を祝い、災難を去る(さる)という縁起も意味していた。

さらにまた、猿を馬の守り神とする信仰にもとづき、武家、あるいは農家の

厩におもむき、馬の健康を祈ることもあった。


(興津要さん、大江戸商売ばなしより)

  


Posted by かず at 07:25Comments(10)

2011年01月13日

お江戸の酒合戦・・・

おはようございます。

皆様、年末から続く忘新年会・・・いかがおすごしでしょうか

間違っても「酒の飲み比べ」なんてしてませんよね?(体に悪いので止めましょう・・・(^^;)

まあ、世の中平和だと、変なことしがち・・・

動乱の時代には、英雄の武勇談が熱く語られますが、四海波静かと言う泰平の世には、血なまぐさい

話は不似合い・・・英雄にかわって世人の喝采を浴びたのが、いわゆる「奇人・変人」・・・

江戸の時代もそうです。そんな奇人変人が集まって、お酒で合戦・・・

・・・いわゆる飲み比べをしておりました。



以下、杉浦日向子さん大江戸美味草紙より・・・

 泰平の江戸では、「酒合戦」というバカげた呑みくらべが、そこかしで、もよおされた。

「酒合戦」につかわれる大盃を、俗に「武蔵野」と称す。

江戸は、「武蔵野は月のいるべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」と、

かつて平安の都人を詠嘆せしめた辺境の荒地だった。見渡す限りの原野。

すなわち、野見尽くせぬ・・・呑み尽くせぬ・・・

それほどなみなみたっぷり酒の入る盃と言う意味だ。大相撲の千秋楽に、優勝力士が抱える朱盃へ、

月とススキの蒔絵をほどこせば「武蔵野」の基本形となる。

 文化十四年(1817)三月二十三日、両国柳橋の料亭、「万八楼」での記録が、

江戸第一の盛会として、世に名高い。

六十八歳の堺屋忠蔵は、三升入りの大盃で三杯(九升)呑み、かたや三十歳の鯉屋利兵衛は、

おなじ大杯で六杯半(一斗九升五合)呑んだもののさすがにぶっ倒れ、しばし休んだのち、

茶碗に水を十七杯飲んだとか、四十七歳の伊勢屋伝兵衛は、八升一合呑んだあと、

飯を三杯食って、茶を九杯飲んで、さらに甚句を踊ってみせたとか、一斗五合を呑んでぶっ倒れたが、

そのあと砂糖湯を茶碗で七杯飲んだ屋敷の使用人などなど、なんともあきれ果てる数字が、

うんざりするほどえんえんと並んでいる。  


Posted by かず at 07:11Comments(7)江戸っ子の生活

2011年01月11日

江戸時代の旅費・・・お伊勢参り



江戸時代に旅をすると言えば、お伊勢参りですね、

文化4年(1807年)、武蔵荏原郡太子堂村(現在の東京都世田谷区)庄屋の森次左衛門さんが、

伊勢参りをしたときに使ったお金の記録を、『旅金小遣覚帳』という名で残しています。

とても「まめ」というか、貴重な資料です。

・・・正月19日(出発は小正月くらいでしょうか?)
      
昼の弁当 64文(1,600円)、 

小休み(船待ちの小休止) 84文、(2,100円)

あんま32文(800円)、あんまへ駄賃 12文(300円)、 

大井川船賃 232文(5,800円)、 

旅籠(金谷宿あたり?=現在の静岡県島田市金谷) 200文(5,000円)、
      
あんま32文(800円)、同駄賃12文(300円)、 

1日の合計 668文(16,700円)


  
・・・正月20日
      
小夜中山あめ餅 10文(250円)、*小夜中山=静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠

昼の弁当 116文(2,900円)、 

小休み(日坂宿で小休止?) 32文(800円)、 

ほん 16文(400円)、 
      
半紙 24文(600円)、 

草鞋(2足) 24文(600円)、 

旅籠(掛川宿?=現在の静岡県掛川市) 172文(4,300円)、 

その他色々 272文(6,800円)、 

1日の合計 666文(16,650円)




伊勢神宮へお参りした後、大坂・京・善光寺を経て、47日間の旅でした。
(47日・・・東海道中膝栗毛と比べると少しスローペースのように感じますが、
京、大阪でゆっくりしたんでしょう)


総費用は4両と695文(27,895文)=697,375円

1日平均約590文(14,750円)となります。

注意:一両=6000文=15万円で計算しています。

ちなみに江戸~京間往復で旅費がおおよそ四両といわれていましたので、
おおむね、予算どおりの旅だったのではないでしょうか。

現在、同様の観光旅行をすると、3泊4日で10万円くらいでしょうか
(交通費3万、宿泊費5万、その他2万円)

ツアーだともう少し安く行けちゃいますね。

  


Posted by かず at 21:38Comments(8)

2011年01月10日

天ぷら・・・



いまや天ぷらといえば、高級接待に使われるほどのご馳走となったが、

スタートは安値なファーストフードだった。

江戸前の粋を体現した流行作家、山東京傳も、天ぷらが好物だったとみえ、

「いつぞや四文銭を一枚くすねて、サザエのてんぷらを一ツ買って食ひしより今に忘られず」
(江戸春一夜千両)と書いている。

それにしても四文とは安い。だいたいコロッケ一個の感覚だから、

子供の小遣銭でもじゅうぶん買える。

食べ盛りのオヤツにはうってつけだ。

  


Posted by かず at 17:28Comments(6)

2011年01月10日

時代ものってなんで、イライラするの?・・・

時代小説、歴史小説、捕物帖、剣豪小説・・・ジャンルと呼称を問わず、

とにかく明治以前の書物を読むとき、読者は例外なくイライラ感をつのらせる。

生活実感がないまま物語が進行していくからだ。

ずばり、「経済」という視点が欠落しているからである。平たくいえば「カネ」であり、

もっとくだいていえば「何にいくらかかるか?」である。

股旅小説でも剣豪小説でもいい、旅に明け暮れる一人の男を思い描いていただきたい。

「木賃宿に泊まる。」いくらか???一人部屋と相部屋では値段はどう違うか?

「川を渡る。」船代はいくらか?人足の肩車だとどうなのか?

「茶店に憩う。」お茶代はいくらか?団子は?心づけは?・・・・・

そもそも、長期間にわたって旅に出る男は、最低いくらぐらいを懐中に用意しているものなのか?

それは小判なのか?銀貨?銭?・・・・・

どれもこれも、??の連続である。

先日、ある剣豪小説に、いわゆる道場破りに対する”お引き取り料”が三両内外であったと

書かれていたが、それも、江戸前期と後期ではずいぶん違う・・・

また、その小説には、三両あれば旅の生活をどのくらい続けられるのか少しも触れられていない。

当然といえば、当然だが、それゆえ、読者にとってその三両は意味をもつ金銭単位とはなりえて

いない。このように、ある部分に唐突に銭何貫文、あるいは何両・何分・何朱とでてきても、

読者は当時の毎日の金銭感覚をとうてい実感できない・・・

これが、「イライラ」感になって、歴史や時代モノを遠ざけているのではなかろうか・・・

私は、このブログをはじめた当初(11月13日の記事で)、江戸の金銭に触れ、自分のなかで、

一両を現在の価値で十五万円としている。

それは、あくまでも仮説の域で、正確とは、言えない・・・

ただし自分が、江戸を理解する(楽しむ)うえで非常に重要なことだと思っている。

今後は、たまに江戸の経済について触れ、より多くの人に、江戸を理解していただけるように

つとめていきたい・・・




  


Posted by かず at 08:50Comments(6)

2011年01月08日

蕎麦前って・・・



江戸で「蕎麦前」と言えば清酒のこと。蕎麦が茹であがる前に、一杯やって待つ。

いい蕎麦屋には、いい酒と、気の利いたツマミがあるのが江戸の流儀だ。

スタイリッシュな江戸蕎麦は大人気を博し、人口百万だった江戸の町に、

たちまち四千店もの蕎麦屋が出来た。

 しかも、これは店舗登録されているものに限るので、担ぎ屋台の「風鈴蕎麦屋」は無数だろう。

現在、人口千二百万の東京にある蕎麦屋は、たった五千店だそうだから、

当時の江戸っ子がいかに蕎麦好きだったかがわかる。
  


Posted by かず at 20:09Comments(6)江戸の文化

2011年01月07日

春の七草・・・おはようございます。



1.芹(せり)-------川辺・湿地に生える。
2.薺(なずな)------ペンペン草。
3.御形(ごぎょう)----母子草。
4.繁縷(はこべら)----小さい白い花。「はこべ」。
5.仏の座(ほとけのざ)--正しくは田平子(たびらこ)。
6.菘(すずな)------蕪(かぶ)。
7.蘿蔔(すずしろ)----大根。


毎年1月7日に「七草粥(ななくさがゆ)」に入れて
食べる習慣がある。
(食べると、災いを除け、長寿富貴を得られるらしい。)
「春の七草」が話題になると、そろそろお正月モードも
終わりに近づきますね。

14世紀の南北朝時代に、
「四辻の左大臣(よつつじのさだいじん)
(本名:四辻善成(よつつじのよしなり))」が
源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で
七草のことを記載している。それが後年、
よく知られる
「せりなずな 御形はこべら 仏の座
すずなすずしろ これぞ七草」

江戸時代には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、
将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていたそうです。

ちなみに、私は、年末年始の暴飲暴食がたたり・・・(胃もたれ・胸やけ)
5日からお粥とうどんとカロリーメイトしか口にいれてません
今日は、もう食べませ~ん(^^;
  


Posted by かず at 07:54Comments(6)