江戸幕府の台所事情③・・・
家光の浪費による経済効果その三
家光が幕府の組織機構を整えた寛永十年代ごろをピークに、金銀の産出は
目にみえて衰えていった。家光がせっせと浪費していたころ、金山は出がらし状態だったのである・・・
それでもまだ当時は幕庫にゆとりがあった。
家光は、嫡子の家綱に遺産を六百万両以上のこした。そのほか三男の綱重、四男の綱吉に
五十万両を分け与えている。
この家光の浪費だが、これを日本国の経済という観点から見るなら、大いにプラスにはたらいた。
幕府は家康の時代から家光の時代にかけて金貨(慶長小判)、銀貨(慶長丁銀)、
銅貨(寛永通宝)の三貨を発行し、幣制を統一した。そして日本は本格的な
貨幣経済社会に突入していくのだが、家光が浪費家ではなく、締りやで、
御金蔵の金を眺めているのが趣味だというような男だったらどうだろうか・・・
世間一般に貨幣はいきわたらない。幣制の統一、貨幣経済社会への移行とは名ばかりで、
原始的な物々交換経済といった状態から容易にぬけだせなかったにちがいない。
そうではなく浪費家だったから、多額の貨幣が世間一般にいきわたり、また大いに流通し、
商品の動きも活発になった。
家光の在位は元和九年(1623)から慶安四年(1651)までの足かけおよそ三十年の間である。
商品経済活動が活発になったのは十七世紀後半といわれている。
十七世紀後半に商品経済活動が活発になったのは、一歩手前の段階で、家光の浪費という
種が撒かれていたからである。家光の浪費こそが十七世紀後半の、貨幣経済活動と
商品経済活動が一体となった経済の興隆をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
また、家光は、大名達にも金をつかわせた。各種作事・普請の手伝いをはじめ・・・
寛永12年(1635年)に武家諸法度の改定によって参勤交代を義務付けした。
これによる大名達の出費は莫大なものであった。もたらした経済効果も絶大である・・・
が、そこに政治的意味あいはあっても、経済的期待は無かったと私は考える
莫大な出費による経済効果は、あくまでも、結果である、
当時の日本(江戸幕府)に金銭による経済は、あまり認識されていなかった・・・
家光も経済効果をねらってしたことではないと思う・・・
この時代、金銭は不浄の物だった、特に武家社会では、米こそ豊かの象徴で、最も尊きものだった。
武士の俸禄も知行取(地主)が最高位で、扶持米取(米の現物支給)、御給金取とつづく・・・
金銭にて給料を貰う者が、最下級だった。後にその考えは、改められる・・・
というより思い知らされる・・・が、それはもう少し後の話・・・
あるいは家光自身、金銭は不浄の物との考えでおしげもなくばらまいたのかもしれない・・・
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