家光の浪費による経済効果その二
家光は、弟の忠長に将軍の座を奪われそうになるが、春日局と祖父家康にすくわれる。
そんなこともあり、東照神君家康への畏敬の念がとても強く、父秀忠の死後、本格的に
日光東照宮を造営した。これに五十七万両という大金をかけた。
日光東照宮を造営するだけでなく、参拝にも精をだした。
父秀忠との同行の二回も含めて、合計十回も日光に出かけた。
一回の費用はおよそ十万両と推測される。十回だと単純に掛け算して百万両だ。
造営日とあわせると日光東照宮関係だけで百六十万両ちかくつかっている。
家光は秀忠と二度、単独で一度、合計三度上洛した。
単独での三回目の上洛は三十万七千人という大軍を従えての上洛だ。
上洛の直接経費にいくらかかったか、記録はない。
大名の上洛費用は彼らが負担したろうが、旗本など直参はそうもいかなかったろう。
かなりの援助をし、これに相当金がかかったものと思われる。
京では天皇をはじめ諸公卿に献金した。京の町民にも祝儀をばらまいた。戻ると江戸の町民にも
祝儀をばらまいた。ばらまいた金の記録はのこっていて、合計二十三万両つかっている。
上洛の直接経費も加えると、五十万両ではきかなかったろう・・・
江戸は馬糞臭い新興の町だった。諸大名にも手伝わせたが、幕府みずからも金をかけて、
作事・普請(土木および建築工事)を行った。これらにもかなりの金をつかった。
安宅丸という、軍船と称していたが、馬鹿でかい遊覧船のような船も、およそ十万両をだして
建造した。そのほか、やむをえない費用だったが、島原の乱の戦費が妬く四十万両かかっている
それやこれやで家光は、経常費以外に六百万両以上(約一兆円)
つかったのではないかと推測されている・・・・・が、ゴールドラッシュは続かなかった・・・
・・・またまたつづく・・・