時代ものってなんで、イライラするの?・・・
時代小説、歴史小説、捕物帖、剣豪小説・・・ジャンルと呼称を問わず、
とにかく明治以前の書物を読むとき、読者は例外なくイライラ感をつのらせる。
生活実感がないまま物語が進行していくからだ。
ずばり、「経済」という視点が欠落しているからである。平たくいえば「カネ」であり、
もっとくだいていえば「何にいくらかかるか?」である。
股旅小説でも剣豪小説でもいい、旅に明け暮れる一人の男を思い描いていただきたい。
「木賃宿に泊まる。」いくらか???一人部屋と相部屋では値段はどう違うか?
「川を渡る。」船代はいくらか?人足の肩車だとどうなのか?
「茶店に憩う。」お茶代はいくらか?団子は?心づけは?・・・・・
そもそも、長期間にわたって旅に出る男は、最低いくらぐらいを懐中に用意しているものなのか?
それは小判なのか?銀貨?銭?・・・・・
どれもこれも、??の連続である。
先日、ある剣豪小説に、いわゆる道場破りに対する”お引き取り料”が三両内外であったと
書かれていたが、それも、江戸前期と後期ではずいぶん違う・・・
また、その小説には、三両あれば旅の生活をどのくらい続けられるのか少しも触れられていない。
当然といえば、当然だが、それゆえ、読者にとってその三両は意味をもつ金銭単位とはなりえて
いない。このように、ある部分に唐突に銭何貫文、あるいは何両・何分・何朱とでてきても、
読者は当時の毎日の金銭感覚をとうてい実感できない・・・
これが、「イライラ」感になって、歴史や時代モノを遠ざけているのではなかろうか・・・
私は、このブログをはじめた当初(11月13日の記事で)、江戸の金銭に触れ、自分のなかで、
一両を現在の価値で十五万円としている。
それは、あくまでも仮説の域で、正確とは、言えない・・・
ただし自分が、江戸を理解する(楽しむ)うえで非常に重要なことだと思っている。
今後は、たまに江戸の経済について触れ、より多くの人に、江戸を理解していただけるように
つとめていきたい・・・